昭和44年04月03日 夜の御理解



 信心によって、光りを受けるとか、力を受けるとか、お徳を受けると、信心はその輝く様な物、光の様な物を頂くと、あの人はあの中で、ちょっと光ってるなと、特別いいのを申します様に、信心さして頂く者もやはり、沢山の例えば、氏子信者の中の、矢張り光った信心にならないかん。光った存在にならなくてはいけない。
 御祈念前、郷土の歌祭りか何かが、テレビであっています、宮田輝が司会してやってます。今日は新潟の方から、中に中村光輝っていう少年俳優がおります。中学校の一年だそうです。踊りもしっかりしていますけれども、その根性がしっかりしている。中々立派な芸をそれこそ、沢山のテレビファンに見られておる。見る方の大衆よりも、舞台で見られる方の役を務めておるわけですね。
 私達もやっぱりそう、例えばあの、同じ習うならばね、それを例えば、見るよりも見せる方の立場に立たせて貰える様な信心を頂かないけんと思う。今、毎日、それこそ厳しいまでに、今、御大祭前の舞いの稽古があっとります。ここでは、直子と佐田紀子さんが、ちょっと難しい舞いなんですけど、二人が一生懸命、それこそ一生懸命、稽古をやらしてもらってます。
 もう投げ出したい位に、厳しく教えられております。けれども私は思うに、その見る方よりも、見られる方に成る為には、矢張り光らなければいけん。見たけれ、大した事はなかった、という様な事じゃなくて、矢張りあの光った存在に成る為には、矢張りあの一生懸命の稽古が必要なのと同時に、怒られたからへこたれると、厳しいから辞めると、言う様な事では光る存在、見られる存在にはなれないと思う。
 信心も同じこと。難しいから、修行が厳しいから、というておったんでは、私はもう、お徳は頂けないと。光りは受けられないと。ですから、本気で信心の稽古をさしてもらう、信心の言わば力により、光により、矢張り自分の周囲を明るくするというか、光る存在にならして頂く為に、どうでも一つ、本気での信心の稽古、言うならどういう厳しい修行でも耐えれる、又そういう願い、そういう姿勢がね、必要である。
 お参りしてから怒られるごたるなら、もう参らん。信心しよるけれども、やっぱこげな困った難儀な問題もあるじゃないか、と言う様な事であったら、もうそれは本当の信心にはなれない。そういう都度、そういう場合にです、そこをひとつ信心の修行と思うて、本気で稽古さして頂く所からです、もう全ての点にですね、まぁ言うなら、限りない神様のおかげというか、神様の働きを自分の身一つひとつに、受けておるんじゃなかろうかと思われる様な、おかげが受けられる様になる。
 それは沢山の人が見ておる前で、立派な演技をする、矢張りその今日のいうならば、少年俳優中村光輝の様なですね、立場に立たせて貰う様なおかげ。見る方よりか見せる方、折角見せるなら、みんなから成程と合点が行く様な演技、あっちは信心一家であるが、あちら子供の頃から信心しよったが、成程やっぱり違うと言った様なおかげをね、現わしていけれる信心を目指さないかん。
 それには、矢張り修行が辛いと言う様な事では、心を体得し、本当のおかげを頂く事が出来る筈もない。光など勿論頂ける筈がない。光りをその発せられる様なまぁいうなら宝石の様な存在で有りたい。そういう信心を目指した、信心で有りたいと私は思いました。見る方の側よりか、見せる方の側に立たして貰える様な、信心を頂きたいと思いますね。    どうぞ。